今から60年前の今日、新門荘が株式会社として法人化されました。
昭和28年3月1日のことです。
これより4年前には旅館営業をしていましたが、
設立されたのはこの日ですので、会計上は今日から第60期を迎えることになります。
いつぞや某先生に過去三年間の決算書をお見せした時に
「いやー、第58期なんて数字は滅多と見られませんね」と
感心されたことがありますが、私にはその歴史がピンときていません。
祇をん新門荘は、私の曾祖父がはじめました。
当時この界隈は病院がたくさんあり、ここ新門荘も元々は大きな医院だったそうで、
曽祖父がこの300坪を買い取ったと聞いています。
祖母の家にあった数冊のアルバムを何故か私が持っていて、
このブログに載せられるような写真はないかなぁ…と
何年振りかに開けて探していたら、レア写真を発見!

現在は南北に走る‘花見小路通り’に正面玄関がありますが、
当時は東西を走る‘新門前通り’側が玄関でした。
ですので、この写真は新門前通りから撮っていることになります。
写真の向こう側の白い蔵のようなところが、
現在鉄筋コンクリートの新門荘の建物(本館)です。
そして、看板がかかっている建物は今は無き旧館と思われます。

曽祖父もまさか自分が創めた旅館が60年以上も続いているとは思わなかったでしょうね…
私が先祖に感謝しているのは「花見小路新門前」という一等地で
商売を確立してくれたことです。
私が高校生の時から税理士になりたいと思い、商学部に進んだのは
妹も弟も跡を継がないと確定しても、
数字さえ読めれば経営は出来るのではないか、という考えがあったからです。
40歳でも50歳でもいいから、いつか会計という部門で
新門荘に携わるようになれればいい。
妹か弟が後継ぎとなっても、私は税理士だったら生計を立てていけるだろう
と、高校生にしてはなかなかしっかりした将来設計が出来ていました(!?)
これまで父は私・妹・弟の三人の誰にも、ただの一度も
「跡を継いでほしい」とは言いませんでした。
父は、小さな頃から周囲に「後継ぎのボン」と事業継承を当然として
言われ続けてきたそうなので、我が子にはそういうジレンマを抱かせたくない、
という親としての思いがあったからでしょうか。
大学4回生の頃、親が商売しているところなら、
税理士試験の勉強の融通が利くだろう、という甘い考えの元、
他所へ就職せずに新門荘に入りました。
しかしながら、いつの間にか本気で仕事に向き合うようになった頃、
そして妹・弟が店に従事しない方向へ進みだした頃、
「私は店の跡を継ぎたい」と父に申し出ました。
あまり感情を表に出さない父は「そうか、パパは嬉しいよ」と返しました。
経営的に苦しかった10年ほど前に
「ただただ暖簾を守る為だけに必死でここまでやってきたんだ」と漏らした
父の一言が忘れられません。
儲けや見栄よりも、細く長く続けていくことを取ることは
実は誰にも見えない多くの本当の苦労が伴うことも
今の私ならば少しずつ理解できるようになりました。
そうは言っても、私は社長という肩書に固執しているわけでもないので
4代目は私じゃないかもしれません。むしろ二番手で進む方が私には合っているのかもしれない、と考えることもあります。
ともあれ、私がこれからも第一線で新門荘に従事していくことは間違いないことです。
さておき、新門前通りを東から西へ向かって見ている
この風景は今も昔も変わりませんね。

昭和55年に木造から鉄筋に建替えたこの建物も
いよいよ老朽化で、全面的な改装が必要となってきました。
すでにブツブツと父と話をしてきた計画も
具体的に落とし込んで表面化していく時期がきたようです。
(正月の挨拶を兼ねたブログでは創業60周年と書きましたが、
正しくは設立60周年です。訂正してお詫びいたします)
昭和28年3月1日のことです。
これより4年前には旅館営業をしていましたが、
設立されたのはこの日ですので、会計上は今日から第60期を迎えることになります。
いつぞや某先生に過去三年間の決算書をお見せした時に
「いやー、第58期なんて数字は滅多と見られませんね」と
感心されたことがありますが、私にはその歴史がピンときていません。
祇をん新門荘は、私の曾祖父がはじめました。
当時この界隈は病院がたくさんあり、ここ新門荘も元々は大きな医院だったそうで、
曽祖父がこの300坪を買い取ったと聞いています。
祖母の家にあった数冊のアルバムを何故か私が持っていて、
このブログに載せられるような写真はないかなぁ…と
何年振りかに開けて探していたら、レア写真を発見!

現在は南北に走る‘花見小路通り’に正面玄関がありますが、
当時は東西を走る‘新門前通り’側が玄関でした。
ですので、この写真は新門前通りから撮っていることになります。
写真の向こう側の白い蔵のようなところが、
現在鉄筋コンクリートの新門荘の建物(本館)です。
そして、看板がかかっている建物は今は無き旧館と思われます。

曽祖父もまさか自分が創めた旅館が60年以上も続いているとは思わなかったでしょうね…
私が先祖に感謝しているのは「花見小路新門前」という一等地で
商売を確立してくれたことです。
私が高校生の時から税理士になりたいと思い、商学部に進んだのは
妹も弟も跡を継がないと確定しても、
数字さえ読めれば経営は出来るのではないか、という考えがあったからです。
40歳でも50歳でもいいから、いつか会計という部門で
新門荘に携わるようになれればいい。
妹か弟が後継ぎとなっても、私は税理士だったら生計を立てていけるだろう
と、高校生にしてはなかなかしっかりした将来設計が出来ていました(!?)
これまで父は私・妹・弟の三人の誰にも、ただの一度も
「跡を継いでほしい」とは言いませんでした。
父は、小さな頃から周囲に「後継ぎのボン」と事業継承を当然として
言われ続けてきたそうなので、我が子にはそういうジレンマを抱かせたくない、
という親としての思いがあったからでしょうか。
大学4回生の頃、親が商売しているところなら、
税理士試験の勉強の融通が利くだろう、という甘い考えの元、
他所へ就職せずに新門荘に入りました。
しかしながら、いつの間にか本気で仕事に向き合うようになった頃、
そして妹・弟が店に従事しない方向へ進みだした頃、
「私は店の跡を継ぎたい」と父に申し出ました。
あまり感情を表に出さない父は「そうか、パパは嬉しいよ」と返しました。
経営的に苦しかった10年ほど前に
「ただただ暖簾を守る為だけに必死でここまでやってきたんだ」と漏らした
父の一言が忘れられません。
儲けや見栄よりも、細く長く続けていくことを取ることは
実は誰にも見えない多くの本当の苦労が伴うことも
今の私ならば少しずつ理解できるようになりました。
そうは言っても、私は社長という肩書に固執しているわけでもないので
4代目は私じゃないかもしれません。むしろ二番手で進む方が私には合っているのかもしれない、と考えることもあります。
ともあれ、私がこれからも第一線で新門荘に従事していくことは間違いないことです。
さておき、新門前通りを東から西へ向かって見ている
この風景は今も昔も変わりませんね。

昭和55年に木造から鉄筋に建替えたこの建物も
いよいよ老朽化で、全面的な改装が必要となってきました。
すでにブツブツと父と話をしてきた計画も
具体的に落とし込んで表面化していく時期がきたようです。
(正月の挨拶を兼ねたブログでは創業60周年と書きましたが、
正しくは設立60周年です。訂正してお詫びいたします)